期待される保健師活動〜在宅福祉の村『泰阜』での考察〜

         特定非営利活動法人 健康増進支援機構 代表 生田恵子

                         

はじめに

 行政と住民、住民と住民が共に支えあい共に生きる地域づくりに側面からお手伝いしたいと考え、NPO法人健康増進支援機構を立ち上げて平成18年12月9日で3年目に入っている。その活動の一環として平成18年10月に、福祉の村として全国から注目を集めている長野県泰阜村を訪ねる機会を得た。『今に至る歩み、行政のリーダーシップ、住民の協働意識醸成のための努力、そして現状について』松島貞治村長、佐々木学医師、池田真理子保健師にそれぞれの立場から聞いた。

 今年1月に再び訪れたときには、松島村長と昨年11月に保健・介護部署に戻った池田保健師から高齢者の考え方やその対策について聞くことができた。その中で首長の考え方や生き方、やろうとしていることが住民や職員に理解され、その人たちの心を揺り動かすことができたら、それが好いまちづくりに繋がること、まちづくりの理念とそれを実現するために求められる首長の資質として経営やマネージメント力が重要であることなどを学ばせていただいた。

 松島貞治村長には、その両面が備わっていた。長年の生き方の中で自然と備わったのであろう、優しく慈しみ深い目の表情がさらに住民や職員に尊敬され信頼されるゆえんだろうと思えた。村長は、老いや死は誰にもくるもの、その高齢者を支えるには、先に医療ではなく、老いを受容し、高齢者の「生きる」「生活する」を支える福祉であると考えて、高齢化率が20%を超えた昭和60年頃から「在宅福祉」を目指した村づくりに取り組んできている。また「在宅福祉」を支えるものとして医療・看護・保健は不可欠なものとして併行して推進してきている。そういう考えに行き着いたのは村人たちの教えからであり、さらにはこの考え方を職員や村人たちが支持してくれて、共に歩もうとしてくれたからだと語っていた。そうした地道な積み重ねの歴史を表1に示す。

 泰阜村における保健師活動は、村長のそういう想いを受け止め、生きがいや健康の側面からの役割を担ってきている。その活動姿勢や実践は、現在の保健・保険・医療の変革期の中で行政保健師が期待されている方向や実践能力そのものである。そこで以下に池田保健師の活動を通して、これからの保健師の歩むべき方向を考えてみたい。

 また、池田保健師にはこの原稿をまとめるにあたり多大なご協力をいただきました。この場をお借りしてお礼を申し上げたい。

 

1 村の概要

 長野県の南端に位置し、面積65Ku、林野率87%、人口2155人(平成15年8月1日)、65歳以上人口807人(高齢化率37.4%)、761世帯(特養50世帯を含む)うち独居世帯100、高齢者のみ世帯150となっている。村内には19の集落が点在し、高齢化率50%を超える集落も5つあり、最高は84%だ。公共機関は、小学校2、中学校1、保育園2、診療所1(内科医1名常駐)、特養ホーム50床、ショートスティ6床などである。

 

2 在宅福祉を理念とする村とそこでの池田保健師の活躍

1)教育部署での活躍

 池田保健師がこの村で働いて22年。松島村長の命を受けて保健、教育、介護部署と転属を繰り返し、10月に訪ねたときは教育委員会で働いていた。教育部署は村づくりを考えるにいい場であり、前回(平成7年度)、教育部署に行ったときに生涯教育的視点で村人をみて気づいたことは、村に不満を持ち、泰阜村は好きでないと言う村民が多かった。特にこの村の高齢者は働けなくなるとものを言わなくなる、子供の言うことを聞いて行動するようになる。

 この村に嫁に来た女性も、最初は元気でも段々元気がなくなっていく。フィリッピンやブラジル、中国からの花嫁も数多く暮らしているが、異文化の中で悩みを持って生活している。これらの人達に『生まれたこの泰阜村が大好き。ここで生まれ育って死ねて良かった。ここに嫁に来て子育てができて良かった。』と言ってもらえる村にしたいと、池田保健師は考えた。

 そのためにまず取り組んだのは、小学校での村の人たちによる授業である。土曜日の半日を「ノー鞄デー」と名づけた。「五平餅づくり」「こんにゃくづくり」「門松づくり」、時には猟友会の人から「猪と猪狩りについての講話」、「短歌・俳句づくり」等々。子供たちの目はキラキラしてくる、それを見て村人たちも喜ぶ。このことがモデルになり、野外活動へと発展して行った。村人達が中心になり実行委員会を立ち上げ「かたくりますます事業」(かたくりは村の花)を起こした。そのリーダーとなった“かたくり老人”による「野山を歩こう」「花づくりと観察」、高齢化率75%の“榑木”という集落で無形文化財に指定されている、年貢の完納を喜んで踊る「榑木踊り」を伝承していくために子供たちが集落に出向いてそれを習う、など活動は多彩になっていった。次に、子供たちに夢を与えたいと考え、10年前からプロ野球解説者のデーブ大久保氏の協力を得て様々なイベントを重ねてきた。その推進者も村人の意思によりできた実行委員会である。

 結果、子供たちは野球に強くなる。日ごろの成果を出し合える地域大会も村で開催するようになり、定例化しはじめた。大会で上位の成績を保持できるようになった。委員会メンバーは勿論のこと他の村人も「俺達がいなければ」の気持ちが芽生え、それが連帯感や生きがいや健康に繋がっていった。子供たちと大人たちが一丸となった子供と村人、村人同士の交流活動事業として定着した。外国人花嫁たちには、その人達の悩みの一つである食文化の違いに着目し、食文化交流会を立ち上げた。ここでも村人による実行委員会が推進役となり、花嫁たちのつくる郷土料理を村人たちに食べてもらう会から料理教室まで発展した。そんな中で外国から来た花嫁と村人たちは次第に打ち解け合い、花嫁たちは村の一員として溶け込んでいった。

 『村に誇りを持ってもらいたい』と思い村の歴史や自然を題材にした事業にも様々に取り組んできた。こうした活動は双方向にメリットのある世代間・異文化交流として村に定着し、特に高齢者は「俺たちがいないと」「村は俺たちでつくるんだ」といった意識が高まり、一方で高齢者の生きがいや良好な健康感を創るのに役立った。またこうして育った事業は池田がいなくなっても継続していくだろうと彼女は確信している。

 余談になるが、この村では残留孤児の課題を抱えていた。数年前に訪ねたときその何人かに会って話を聞いた。「この村に帰ってきて良かった」「お蔭さんで安心した生活をいただいている」「今は村人と一緒になって交流したり、活動したりすることもできるようになった」と喜んで話してくれるのを聞いて、胸に突き上げるものを感じたことを思い出す。

 

2)保健・福祉部署での活躍

 村が「在宅福祉」を目指して歩みだした昭和60年前後は、医師も当時村職だった現村長も看護師も保健師も一日の仕事が終えると一緒になってその日の働きを出し合い、語り合い、議論しあい、時には喧嘩もした。その中から、今日の泰阜村に繋がったものが多い。

 さらに村長と彼女は、「連携」とはこういうことをいうのではないかとさらりという。当時、例えば6年間も入浴していない人がいた。また家族が外で働いている間は枕元に置かれた粗末な食事を取り終日を過ごす高齢者がいた。でも村ではそのことを普通のこととして受けとめられていた。

 そうした状態でも最期まで我が家で暮らしたい、畳の上で死にたいと想っている高齢者たちだった。誰でも死ぬ、幸せな老後と死を迎えることができるような村にすべきだなどと現場職員の毎日の喧々諤々の議論の末生まれたのが「在宅福祉の村」構想である。現場職員同士の議論からの姿勢は今も変わらない。が組織的になることで村政を預かる者と現場職員間にズレが出ることもある。その溝が大きく、深くならないように配慮をしていると村長は語っていた。

(1)高齢者と村の福祉理念

 福祉の理念を創るにあたって村の職員が認識しあったことは、@医療には限界がある。誰でも老いて死を迎える。どんな高度医療も薬も役に立たなくなるときがくる。人間結局最後は肺炎や老衰で死んでいく、A予防活動にも限界がある。死ぬまで健康という幻想、寝たきりゼロは不可能、認知症にならないなんて不可能、B多くの高齢者は長生きより自分の家で安らかな死を望んでいる・・である

 そして理念として確認し合っていることは、@誰でも死んでいく事実を認め、障害や病気のあるなしに関らずその人らしい老後を送り、そして幸せな死を迎えさせてあげたい。そのことを村の高齢者も望んでいる。日本の発展、社会の発展に尽くした高齢者に幸せな最後を提供するのは村の責任である、A福祉事業推進の三原則は「ノーマライゼーション」「自己決定」「社会参加」である、B加えて福祉担当者の共通意識としては介護する側でなく、介護される側の気持ちを尊重する・・を踏まえて、次の事業を実施している。

 

(2)在宅福祉事業

 本人が望むなら介護保険の対象外の人であっても充分なサービスを提供し、最期まで在宅での生活を支える。事業としては、訪問介護、在宅入浴、訪問看護、その他の訪問サービス、臨終まで看取る在宅医療、福祉用具の貸し出し(ベットや車椅子等が欲しいとの連絡を受け担当者が手一杯の時は診療所の職員や池田保健師も運ぶ)、給食サービス、地域ディサービス、診療所受診のための福祉バス等である。

 介護保険法によるサービスはタイムリーな対応ができないなどの難点があるがこの村独自の在宅福祉事業は、電話一本ですぐ対応する。望めば独居でも生活し続けられるように支援する。さらに、地域ディサービスは元気老人のための拠点でもあり、風呂、プール、食事など交流の場として賑わっている。もちろん、送り迎えの機動力もある。必要であれば誰もが使える柔軟で懐深く入り込んだ事業である。

 

(3)介護保険と高齢者対策

 介護保険の1号保険料は3,800円。認定者は、約100人、うち在宅は80人、施設利用者は約20人である。村独自の施策として@利用料のうち個人負担分の60%を村が肩代わり、A必要であれば上乗せサービスをしているがその分は村負担、Bショートスティは継続使用できるが保険の対象外は村が負担する、である。介護保険事業者は、松島村長が会長を務める社会福祉法人「泰阜村社会福祉協議会」であり、法定サービスの全て及び村の単独事業や介護予防生活支援事業も実施している。

 

3 在宅福祉の波及効果

1)在宅死の状況

 特に在宅福祉を推進してきた昭和60年以降でみると、昭和63年と平成5年は70%、その後は減って平成15年では80%を超えている。(図1

 

2)1人当たりの老人医療費(平成15年度)

   全国平均  752,721円

   長野県平均 612,042円

   泰阜村   457,607円

   泰阜村の一人あたりの老人医療費は、県内で最も低い。これは終末医療費が少ない、在院日数が少ない等が理由である。

 

3)一世帯あたりの国保税(平成14年度) 

   全国平均   157,005円

   泰阜村     69,648円

 

4 泰阜村における村づくり及び高齢者対策の特徴と感想

1)松島貞治村長は、本当に村人が満足できる福祉の村になっているか、まだやることは沢山あると考えている。そのために村長をやっているのだといっていた。また村長は許されるものなら自分がケアマネージャーの資格を取りたいと想っているが、現実は難しいことも分っている。そうした想いを汲み取り、常に村人の傍に寄り添い、見て、聴いて、感じて、アセスメントをして、村人の想いに添えるような仕事の仕方をしているのが池田保健師であり、佐々木学医師も同じだ。村長も池田保健師も村人の個々の状況はおおむね把握している。このこともすごいことである。

 

2)先に保健や医療があるのではなく、どの村人もこの地で幸せに生活できて、安らかな最期を迎えることが出きるような村づくりを目指している。その具現化のための理念・目標・戦略・実施体制等が明確にされており、担当する者全員がそれを認識し、それぞれの役割を果たしている。

 

3)こうした村づくりのために住民や行政がしなければならないことについても住民に説明がされており、地域力、住民力を活かした事業の企画、展開をしている。

 

4)連携は大事であるが、泰阜村の「連携」とは、福祉担当者等ができるだけ頻繁に一緒になってよりよい村づくりのためにそれぞれの働きを出し合い語り合い議論し合う、時に喧嘩もする関係にあることだとしている。

 

5)高齢者の考え方とその対策とその対策は、“誰でも死んでいく事実を認め、障害や病気のあるなしに関らずその人らしい老後を送り、幸せな死を迎えさせたい”を理念としている。

 具体的には、

  (1) 必要な高齢者に必要な(望む)サービスを提供する

  (2) 電話一本でサービス開始、タイムリーな対応する

  (3) 提供したサービスの内容によりかかった費用を介護保険あるいは村の福祉費からそして自己負担により支払っている

  (4) 自己負担は、利用者が支払える範囲に設定している

  (5) 元気老人がさらに元気になる場づくりとして、前述の村人同士による交流活動や在宅福祉のディサービス事業などを通して実施している

  (6) 必要な機動力を確保している

 等があげられる。

 

5 期待される保健師活動

 保健師の誕生のルーツは、劣悪な環境衛生から派生する様々な健康問題を何とかしたいと想う人達によるソーシャルワーカー的なボランテア活動であった。経済・心理・教育学等をベースにした人が多く必ずしも看護職をベースにした人達ではなかった。そんな中で、当時の厚生省は、厚生行政の最大の課題であった結核等感染症や乳幼児・妊産婦死亡等母子保健問題に対応できる資格者として保健師を国家資格化した。看護師免許取得後に上乗せ教育をしてその資格を与えたのである。資格化が自然的に派生した保健師のソーシャルワーカー的あるいはカウンセリング的なものを含んだユニバーサルな活動をしにくくしてしまった。

 現在、少子高齢社会、また生活習慣病の増加等が医療費や介護給付費を押し上げていることから、特に介護予防や生活習慣病予防対策等が国挙げての課題となり、今般、保健医療の大変革が行われた。その中で注目すべきことは、病院機能の分化・在院日数の短縮化・在宅医療の推進などである。このことは好むと好まざるに係わらず在宅療養者を増加させていくものと考える。保健師はこれまでも健康増進・病気や生活機能低下予防・療養の必要な人たちのニーズに応えるために寄り沿った活動をしてきた。しかし法律や制度が整備・充実された地域でのサービスが専門分化、分散される中で、働き方で混迷する保健師が増えてきている。また縦割り行政がそれを深めている。

 その結果、全てとは言わないが、保健師は決められた事業を軸に展開しているのが現実である。しかし今求められているものは、病気や障害の有無に関わらず、人々がその人らしく生活できるように個別的な支援と、それを地域で支え合う基盤(地域)づくりである。そして求められている能力は、看護の知識・技術を持った行政人としての経営能力であり、健康問題を解決するコーディネーター能力である。まさにかつての先輩たちが行ってきたユニバーサルな仕事の仕方であり、泰阜村の池田真理子保健師のような働き方である。しかし保健師だけではできない。泰阜村の松島貞治村長やその村で在宅福祉を目指してそれぞれの役割を果たしている職員との協働作業がまず必須条件である。そうした中で保健師として忘れてならないことは、本来の活動をするために今一度地域を歩き廻り、声なき声を聴くことではないか。